地元の「語り部」が伝える南三陸の真実(中編)

(前編はこちら

南三陸の「語り部」伊藤さんの指示のもと車を走らせ、最初に向かった場所は、高台に位置する戸倉中学校だった。駐車場の横にはたくさんの仮設住宅があり、今も多くの人がそこで生活をしていた。

高台に建つ戸倉中学校
高台に建つ戸倉中学校

校舎の横からは、海が見下ろせた。かなり高い場所に建っているが、この校舎の1階の窓の上のところまで、波が押し寄せてきたという。グラウンドに避難していた生徒1名、先生2名が犠牲になった。まさかここまで津波が来るとは思わなかっただろう。

伊藤さんは校舎の時計を指差した。

2011年3月11日14時48分から止まったままの時計
2011年3月11日14時48分から止まったままの時計

「あの時計の針は、地震の瞬間から止まったままです。電気で動いていたからです」

「地震があったのは、確か14時46分でしたよね?2分くらい進んでませんか?」

「そう、電気がストップしたのが、地震の2分後でした。つまりあの時計の時間からだったんです。今はまだ、このように震災のことを伝えてくれるものが残っています。でも、いつかはこの時計も消えてしまうんです」

戸倉中学校は、生徒数の減少が原因で、67年間の歴史に終止符を打ち、2014年3月31日に廃校となった。

窓ガラスから、ある教室を覗くと、黒板には翌日の予定が書かれたままになっていた。何もなければ、卒業式が行われていたようだ。

中学校の裏手からは、何もない平らな土地で、着々と復興作業が進められている様子が見渡せた。伊藤さんは鞄から写真を取り出し、ぼくらに見せながら言った。

「戸倉小学校は、あの辺りにありました」

戸倉小学校が建っていた位置を指差す伊藤さん
戸倉小学校が建っていた位置を指差す伊藤さん

海から300メートルほど離れた位置にあった戸倉小学校は、10日前に完成したばかりの新しい体育館も含め、すべてが波に飲み込まれた。校舎の屋上よりもさらに5メートル高い位置まで津波がやってきたのだ。もしも屋上が避難場所に指定されていたら、多くの犠牲者を出したことだろう。しかし、この戸倉小学校では、ひとりの犠牲者も出なかった。そして驚くべきことに、震災のつい2日前までは、この小学校の屋上が避難場所となっていたのである。

実は、2011年3月9日に、少し大きめの地震があった。そのとき、戸倉小学校では、校舎屋上に避難したあと、先生たちの間で話し合いが行われたそうです。「本当にここが避難場所でいいのか」と。結局、山の方にある神社が新たな避難場所となり、翌日の3月10日は実際に避難訓練が行われた。

そして、3月11日を迎えた。

先生は、刻一刻と迫る津波の危機を前に、点呼を取ることも省き、とにかく迅速に神社へと避難させた。もしもマニュアル通りに点呼を取っていたら、逃げ遅れる生徒が出るなど、状況は異なっていたかもしれない。大事な場面では、マニュアル通りにやることよりも、マニュアルを超えた判断力が試される。たっとひとつの判断が、人の命を左右する。この事例は、実に多くのことを教えてくれた。

にも関わらず、ぼくはこの戸倉小学校の出来事を知らなかった。

「(石巻の)大川小学校は何度も取り上げられますが、戸倉小学校のことは知らない人がほとんどです」

「すごい話なのに、どうしてメディアはほとんど取り上げないのでしょうか」

「犠牲者が、出なかったからかもしれませんね」

伊藤さんは、少し寂しそうな顔で笑った。

このことだけではない。毎年、3月11日が近づくと、その数日間だけ報道陣がうわーっと押し寄せて、12日になるとパタッと消えてしまうそうだ。そして、大方どんなストーリーで報道するかを決められた状態でインタビューを受けるため、色々と話しても、「マスコミが欲しい情報だけ切り取られて、そのほかのほとんどの部分はカット」されてしまうという。ひどい場合だと、「そんなこと言ってないのに」という全然とんちんかんな内容で報道されることもあるそうだ。

しかし、「マスコミはひどい」のひと言で片づけてしまったら、生産的なことはひとつもない。もしも自分がマスコミの人間だったら、「そうなってしまうのもしょうがない」と思う部分もあるかもしれない。だからこそ、ぼくのような自由に書ける個人が、自分の足で動き、そこで見聞きしたものを、存分に伝えていくことが大切なのだと思う。

話題性やトレンドを意識した方が、アクセス数は稼げるかもしれない。でも、アクセス数に流されないようにしたい。本来当たり前のことなのだが、書きたいことを書いていこうと、改めて思った。それがメディアにあり方に対するぼくなりの抵抗なのだ。批判だけでは前には進まない。

戸倉を後にし、ぼくたちは南三陸町の中心部へ向かった。

(後編へ続く・・・)

ワセオケの凱旋公演を聴いて

スタンディングオベーション

2月末、海外出張でドイツのドレスデンを訪ねたとき、ヨーロッパ屈指の歌劇場として知られる「ゼンパーオーパー」のチケット売り場の中で、見覚えのあるポスターを見つけた。ワセオケ(早稲田大学交響楽団)が1週間後にこのホールで演奏をする、というポスターだった。

ドレスデンで見つけたワセオケのポスター
ドレスデンで見つけたワセオケのポスター

100年以上の歴史を誇るワセオケは、1978年の第5回国際青少年オーケストラ(通称カラヤン・コンクール)で優勝を勝ち取って以来、定期的に海外公演ツアーを行っている。2000年以降は3年おきにヨーロッパ公演を行っており、ちょうど2015年がその年に当たった。

2月20日のフランクフルト公演を皮切りに、ワセオケの「ヨーロッパツアー2015」が始まった。ザルツブルク『祝祭大劇場』、ウィーン『楽友協会』、ドレスデン『ゼンパーオーパー』、ライプツィヒ『ゲヴァントハウス』、パリ『シャンゼリゼ劇場』など、ヨーロッパの名立たるホールで全13公演を行った。かつてカラヤンが君臨したベルリン『フィルハーモニー』は、ワセオケと縁の深い場所だけに、とりわけ力が入る。

ヨーロッパツアーは毎回好評を得ているが、今回のように、全公演がスタンディング・オベーションで迎えられたほどの大きな成功は、過去になかったそうだ。

さて、ヨーロッパでの1カ月間を経て、成長して帰ってきた彼らはどんな演奏を見せてくれるのだろうか。3月22日(日)、4年生にとって最後の舞台となる定期演奏会を聴きに、サントリーホールへ足を運んだ。

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プログラムの前半は、リヒャルト・シュトラウスの2曲。交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』交響詩『ドン・ファン』

彼らがヨーロッパツアーへ行く直前、2月12日の定期演奏会でも『ツァラトゥストラはかく語りき』を聴いた。そのときも上手だと思ったが、今回はさらに洗練されていた。本場ヨーロッパの大舞台で数々の本番を重ね、毎回評価され、自信も経験もついたのだろう。難しい曲なのに、余裕すら感じた。手を抜くような余裕ではなく、観ている側を落ち着かせてくれ、聴き心地を高めてくれるような余裕だった。

『ドン・ファン』もそうだ。出だしから最後まで、非の打ちどころのないような演奏だった。素人だから音楽的なことはわからない。でも、『完璧だ』と思ってしまった。緊張感に包まれる一回の本番は、人を大きく成長させる。この一カ月間で、音楽的にも人間的にも大きくなって帰ってきたのだろう。演奏に一体感が感じられてなお嬉しかった。

後半のダヴィット『トロンボーンと管弦楽のための小協奏曲』は、当初今回のプログラムに予定のない曲だった。しかし、ワセオケは直前になってプログラムの変更を行った。その理由について、永久名誉顧問の田中雅彦先生はこのような言葉を書いていた。

今回のツアー曲目の中で、お客様やメディアの圧倒的支持を頂いたのは、水出和宏(商学部4年)を独奏者とするトロンボーン協奏曲でした。来月から三井物産で勤務するとパンフレットに紹介されていましたので、「あのようなワールドクラスの天才を音楽社会は失ってもよいものか?」と論評されたほどでした。

その言葉どおり、水出さんは貫録のある、素晴らしい独奏を聴かせてくれた。そう、この田中先生の言葉で思い出したが、この舞台に立っている4年生は、4月から社会人になり(中にはオケに熱中しすぎて留年する者もいるだろうが…)、それぞれ別々の道を進む。そのまま音楽の道に進む者はほとんどいないだろう。趣味として社会人オーケストラで続ける者もいるだろうが、楽器を辞めてしまう人も多い。

だから、このメンバーで演奏するのはこれが最後なのだ。そう思うと、一瞬一瞬の音が愛おしくなるが、そんな切なさもおかまいなしに、時間は進んでいき、曲は進行していく。でも、だからこそ美しい。儚さゆえの輝きがある。卒業後、何年経ってもワセオケのファンでいられるのは、そんなところに理由がある気がする。ひとりひとりの実力はプロには敵わないだろう。だが、オーケストラの一体感や一瞬にかける輝きは、高校野球に似た素晴らしさを感じる。

考えてみれば、4年後には、現在の団員のうち、ひとりも同じ人間は存在しないのだ。毎年4年生が卒業し、新しい1年生が入る。しかし、その4年後の団員が構成するオーケストラも、響きは確かに「ワセオケ」そのものであり、しかも全体としては進化していたりする。不思議なものだが、そこがワセオケの面白いところだと思う。何十年にもわたって指導されてきた田中先生は本当にすごい。

プログラムの最後はモーツァルトの『交響曲第4番(ジュピター)』。ブラームスやベートーベンの交響曲は多いが、モーツァルトの交響曲をやるのは久しぶりだったのではないか。とても新鮮だった。しかし、その最後の曲に、4年生の多くが舞台に立っていなかったのが、残念だった。卒業する4年生の、最後の輝きがみたいものだ。

と思っていたら、その4年生の面々が舞台に上がってきて、アンコールで『早稲田大学校歌』を演奏した。今日出番がなかったオーボエのよく知る後輩も、その場に出てきた。ほんの少しだったけど、4年生のみんなで演奏ができて良かったと親心のように思った。長い間ワセオケを支えてきた4年生、本当にお疲れさま。これで気持ちよく帰ることができる。

しかし、本当のサプライズはここからだった。カーテンコールで指揮台に戻ってきた田中先生が、再び団員に向けて腕を上げ、目つきを変えた。

R.シュトラウスの『「サロメ」より7つのヴェイルの踊り』だった。そういえば、この曲がヨーロッパツアーで4年生中心に編成された曲だと聴いていたことを思い出した。正直、さっきまで聴いていたモーツァルトに比べて、圧倒的に迫力が違った。そうだ、これが卒業生の演奏だ。喜びと気迫に満ちた、瑞々しい演奏だった。

田中先生を眺めながら、思わずにやけてしまった。相変わらずの策士だ。教育者としての田中先生も好きだが、ぼくは戦略家としての田中先生が大好きだ。1978年のカラヤン・コンクールで優勝したときから、きっとその性分は変わってないのだろう。あのときも、難曲と考えられていたストラヴィンスキーの『春の祭典』を自由曲として高い精度で演奏し、優勝を勝ち取った。最初から優勝を狙って、戦略を組んでいたのだ。

後で後輩から聞いたのだが、実はアンコールで『サロメ』を演奏するかどうかは、団員たちにとっても定かではなかったらしい。

「実は『サロメ』は、先生が指揮棒を下ろすまでやるかやらないかわからなかった曲で、だからこそ、サロメができる喜びを噛み締めながらの演奏でした。周りはみんな号泣しながら吹いていました」

と、後輩からメールがあった。そんなこととは知る由もなかったが、ぼくは4年生が最高の形で締めくくれたことが嬉しくて、涙を流しながら演奏を聴いていた。こんな演奏してくれたら、そりゃあヨーロッパの観客も大声で「ブラボー」と叫ぶだろう。彼らはプロの音楽家ではなく、それどころか音大の学生でもないのだ。みんなそれぞれ専攻を持った、普通の大学生なのだ。中には初心者で楽器を始めた者もいる。そんなアマチュアオーケストラが、こんな輝きを持った音を出すのだから。

スタンディングオベーション

「ブラボーと叫ぶ勇気がなくてごめんなさい」、と思いながら、そのかわり精一杯の拍手を彼らに贈った。オーボエの後輩たちが、「4年間お疲れさま」の握手をしてお互いの健闘を称えあっているのを見て、再び涙ぐんでしまった。有終の美とはまさにこのこと。本当に素晴らしい凱旋公演だった。

そんな昨日の演奏を聴きながら、どうしても文章を書きたいと思った。田中先生、団員の皆様、本当にお疲れさまでした。そしてありがとうございました。かつてこの楽団に所属していたひとりのワセオケファンとして、さらなる楽団の繁栄を祈っています。

地元の「語り部」が伝える南三陸の真実(前編)

震災から4年。復興作業が続く宮城県南三陸町
震災から4年。復興作業が続く宮城県南三陸町
東日本大震災から4年。復興作業が続く宮城県南三陸町

3月14日(土)、宮城県南三陸町を訪ねた。

そもそものきっかけは、つい先日、宮城県塩釜市に住む友人ができたことだった。彼女は「塩釜はすごくいいところだから、一度来たらいい」と何度も言ってくれた。ぼくは塩釜のことをまるで知らなかったが、「マグロが有名」という言葉に惹かれた。ぼくは魚が好きなのだ。

だが、ご主人の転勤のため、この3月中に宮崎へ引っ越すのだという。今このチャンスを逃したら、もしかしたら二度と塩釜へ行く機会はないかもしれない。そう思って3月10日(水)に、「今週末に行ってもいいか」と即座に聞いた。突然のことだったが、幸運にも返事はOKだった。

金曜日の夜、着替えを持ってスーツのまま北陸新幹線「はやぶさ」に乗り込むと、仙台までは1時間半で着いてしまった。東北がこんなに近いとは思わなかった。彼女が仙台駅まで車で迎えに来てくれて、塩釜のお宅にお邪魔させてもらった。

塩釜行きが決まったときから、「塩釜以外では、どこへ行こうか」と、考えていた。ぼくの求めるものは、至極シンプルで、「太平洋を眺められる温泉に浸かりたい」という、ただそれだけだった。

そんな温泉がないか調べてみると、意外にも見つかったのは一件だけだった。「南三陸ホテル観洋」というホテルに「南三陸温泉」があり、どうやら素晴らしい眺めを堪能できるようだった。ホテルのHPを見ていると、気になる記事が紹介されていた。

参加者6万人超、宮城・南三陸「語り部バス」の磁力(日本経済新聞)

風化が進む中で、あの日に何が起こったのか知りたいと町を訪れる人も多い。同ホテルでは12年2月から毎朝、「語り部バス」を運行している。「どこに何があったのか案内してほしい」という宿泊客の要望に応えたのが始まりだ。3年間で約6万2000人がバスツアーに参加した

当初は温泉に入りたいと思って行き着いた「南三陸」だったのだが、この記事を読んでから、「このバスツアーに参加して、震災のことを学びたい」という想いにシフトし始めた。しかし、どうやらこのバスツアーは宿泊者限定のもので、塩釜から日帰りで訪ねるぼくらには、参加できないものらしい。

だが、南三陸町を自分たちだけで訪れても、震災のことを深く知れるとは思わなかった。もちろん、行かないよりは行った方がいいに決まっているだろうが、せっかく行くのであれば、どうしても地元の『語り部』さんの話が聴きたい。その想いを、南三陸ホテル観洋の方に伝えたところ、なんとぼくらのために特別に『語り部』さんがガイドしてくださるということになった。それも通常のバスツアーが1時間で終わるところ、3時間近く案内してくださるというありがたいものだった。

そして3月14日(土)のお昼過ぎ、ぼくらは南三陸ホテル観洋のロビーで、『語り部』の伊藤俊さんにお会いした。

地元の『語り部』として震災の真実を伝え続ける南三陸ホテル観葉の伊藤俊さん
地元の『語り部』として震災の真実を伝え続ける南三陸ホテル観葉の伊藤俊さん(左)

「『震災のことを学びたい』と、遠いところから熱意を持って訪ねてくださることが本当にうれしいです。本日はよろしくお願いします」

助手席にお乗りいただき、ホテルを出発すると、南三陸町に起きた真実を知るツアーが始まった。

「では、まずは戸倉へ向かいましょう。ここで起きたことは、テレビでもほとんど報道されていません」

事実、本当に知らないことばかりだったのだ。

中編へ続く・・・)

美しさとバイタリティーについて

「色々なことに挑戦されていますが、そのバイタリティーはどこからくるんですか?」

と聞かれることがありました。理解されないかもしれませんが、自分なりの哲学があります。

ぼくは、何かを見て「これがやりたい」と感じたとき、それが自分の美しさそのものだと考える癖があります。「きっと自分には向いてない」とか「ぼくの立場でできることじゃない」とか、そんなことは一切考えず、やりたいと感じたら、「これをやりたいと思うことこそが自分の美しさだ」と考えます。

よく美術館に行きます。ピカソの絵を見て美しいと感じたとき、ぼくはその絵の美しさに感動しているというよりも、ピカソの絵の中に、自分の美しさが含まれていることに気付いて感動しているのです。美しいものを見たとき、自分の中の美しさと共鳴します。

同じ絵を見ても、それを美しいと感じない人もいます。人それぞれ、異なる美しさを持っているから当然のことです。でもぼくは人と美しさの比較をしたいのではなく、ただひたすらに、自分の中にある美しさを追求したいのです。

すべてのものが、美しさを持っています。スピーチ、和菓子、コーヒー、ワイン、服、靴、建築、本、機能…。人なら外見の美しさだけでなく、行動の美しさや言動の美しさもあります。その人にしかできないことをやっている人には、ほとんどの場合美しさを感じます。この文章はこの人にしか書けないものだなあ、と思うととてつもなく愛おしさを感じます。

何かに美しさを感じて、それが他の人にはない自分自身の美しさと知った以上、やはり表現せずにはいられなくなります。美しさは、地位や能力や資金の問題、全てを超えます。神聖なものであり、次元が違うものだと感じています。

美しさに従う限り、限界はありません。サッカーも自転車旅も、オーボエも和太鼓も、協賛集めも添乗員も、なんだってできてしまいます。全て美しさを感じたからです。

バイタリティーとは、人それぞれが持っている美しさの表現なのかもしれません。何かに心が動かされたとき、感動したとき、きっとそこに自分自身の美しさが含まれているはずです。

そんなことを思うので、ぼくは自分の目と体で、様々なものにふれるようにしています。色んな世界を見てみたいと思うのもそのためです。だって、どこに自分の美しさが眠っているかなんて自分でもわからないから。

海外に出て初めて日本の良さに気付くように、自分のことも、なかなか自分ではわかりません。だからたくさんの場所に足を運び、たくさんの人に会って話をします。他人の考え方の中に自分の美しさを発見することもあるし、嫉妬という形で自分の美しさを知ることもあります。でもいずれにせよ、心を動かされたらそれが美しさなのであり、それを知った先に、自分の意識以外に行動を妨げるものはありません。

そして自分の人生は限りない美しさの追求だという信念があります。この世界で美しさを爆発させるまでは死ねません。それが自分の夢であり、世界中の人々に対する願いでもあります。

「後悔のない人生を」なんて言いますが

昨日、友人がしてくれた話が、とても面白かった。

彼が静岡から横須賀まで一人で運転していたときのこと。途中立ち寄った足柄サービスエリアを出る際、ヒッチハイクしていた2人組を見つけたのだそうです。そのとき彼は、「乗せようかどうか、究極に迷ったけど、決断が遅れ、後続車が来ていたこともあって、そのまま通り過ぎてしまった」とのこと。

でも通り過ぎた直後、「一人で暇だったし、面白い出会いがあったかもしれないし、乗せておけば良かったと猛烈に後悔した」のだそう。この何でもない些細な話に、ぼくはとても共感しました。

「こんなとき、洋太だったら、乗せていたんだろうな。せめてお前が助手席にいれば、瞬時に『乗せよう』と言ったんだろうな」と彼は言いました。確かに、ぼくならそうしていたかもしれません。しかし、彼の言葉に、「でもね」と思ったんです。

でも、今ぼくがそう思えるのは、「やればよかった」「こうすればよかった」という同じような後悔を、これまでに何度も繰り返してきたからなんです。その悔しい思いを積み重ねてきたからこそ、「次こそは…」と少しずつ行動力が磨かれていったのだと思います。

大切なのは、自分の感情と素直に向き合うことだと思います。そこで後悔できるのは、ちゃんと向き合ってる証拠。「後悔のない人生を」なんて言いますが、最初からそんな完璧な人生を送れる人はいません。後悔のない人生は、後悔を積み重ね切った後に訪れるものかもしれません。

だから後悔なんて、次に生かせばいいだけの話。長い目で見れば悪いものじゃありません。

「次にヒッチハイクしている人を見つけたとき、今度は絶対に乗せられるよ」と彼に声をかけました。

「花仕事」という言葉

「仕事には2種類あります。『米仕事』と『花仕事』です」

そう話すのは、デザイナーの水戸岡鋭治さん。クルーズトレインななつ星をはじめ、長年にわたりJR九州の列車をデザインしてきた方だ。昨年「ななつ星」がお披露目されたとき、内装に木材を多用した温もりのある空間は、多くの人を驚かせた。

水戸岡さんは、企業人としての稼ぎ仕事を「米仕事」、公共的・社会的視点で行う金銭的代価を超えた仕事を「花仕事」と名付け、よく使っているという。

米仕事は経済につながる仕事で、花仕事は環境や文化を大切にする仕事であるとも説明している。

「日本では経済重視の『米仕事』の人が圧倒的に多いんですが、私はできるだけ文化を持ち込んだ『花仕事』をしていきたいと考えているんです」

彼は車両のデザインこそ、自らの「花仕事」としている。

しかし、「花仕事」というのは、どうしても目先の利益が下がってしまう。

たとえば鉄道車両などで、床材をプラスチックにすれば低コストでメンテナンスも容易だが、木材を使うと、高コストなうえメンテナンスが大変になる。

それでもあえて水戸岡さんが木材にこだわる理由は、「そこに文化を持ち込みたいからだ」というのである。

たとえ目先の利益が下がろうとも、木材で魅力的なものを作っておけば、それに惹かれた人たちが「本当のファン」になってくれる。そしてそれは、結果的に長続きにつながっていく。

「経済性と文化性のバランスを保つようにしていくと、皆がそこそこ好むものができ上がってきます。実際にそのバランスを追求することが、最終的に一番いい結果を生む可能性が高いのです」

この話、車両のデザインに限った話じゃないなと思った。素敵な考え方じゃないか。目先の利益よりも、文化や感性を大切にする「花仕事」を、ぼくもやっていきたい。

外国人と一緒に歩いて日本を縦断する3つのメリット

好きなことについて考えているときは、本当にワクワクするものです。最近は、歩いて日本を縦断することしか頭にありません。

さて、「この旅のテーマを何にしようか」と随分長いこと考えていました。一年以上考えていました。たとえば、「日本全国の和菓子屋さんを巡る」とか「各県庁所在地を訪れる」とか「各地の農家を訪れて野菜を紹介する」とか、目的なしに旅をするよりも、何かテーマがあった方がいいだろうと。でも、なかなか「これだ」というものが浮かばず、悶々としていました。

先日、ユニークな旅人たちと飲む機会があり、何かアドバイスをもらおうと、この旅の話をしました。すると、郷土菓子研究社の林周作くんが、こんなことを言ってくれました。

「中村さんの場合、体験したことを書けば自然と面白い話になるから、テーマはなくてもいいんじゃないかな、と思います。逆にテーマを設けることで、行きたい場所に行けないとか、旅が制限されてしまうかもしれないし」

テーマ選びにこだわって動けないでいた自分にとって、ハッとさせられる言葉でした。「自由な発想から生まれる自由な行動」これこそが自分のウリだと思っています。だとすれば、確かに変にテーマにこだわる必要はないのかもしれません。

しかし、ひとつだけ、この旅をするにあたって、「これだけは実現したい」というものがあります。

それは、「外国人と一緒に歩く」ということです。

最初にそんなことを思ったのは、英語を学びたいと思ったからです。ぼくは英語がほとんどできません。友人にはよく「そうは言っても、海外添乗員なんだし、少しはできるでしょう」とか言われるのですが、本当に苦手です。「How are you?」と聞かれて、笑顔で「Thank you」と答えてしまうくらいのレベルです。それもつい最近の出来事です。

だから、外国人と一緒に一日中歩いて旅をしていれば、少しは英語も上達するんじゃないかと思いました。少なくとも、何もしないよりはマシだろうと。

しかし、そんな安直な考えが思わぬ副産物をもたらすことに気付いたのです。「外国人と一緒に徒歩で日本縦断する」と何が良いのか、3つご紹介します。

 

外国人と一緒に歩いて日本を縦断するメリット 

その① 英語を学べる

これは上で話した内容です。ぼくが英語を教わるだけでなく、相手に日本語を教えたりしながら、旅をしていきたいと思います。

 

その② 文化や価値観の違いを紹介できる

人は同じものを見て、違うことを考えます。何かを見たときの感想は、日本人同士ですら異なりますが、相手が外国人ならなおのこと。彼らの目に映る「ニッポン」を紹介したいと思います。

ぼくは『Youは何しに日本へ?』という番組が好きです。予想もしない日本のものに、外国人が興味や関心を持つ。そこにあの番組の面白さがあります。

たとえば、外国人は日本の自動販売機に興味を持ちます。海外にほとんどないからです。そして自動販売機で缶ビールが買えるなんて奇跡だ、と思うそうです。日本人であるぼくからしたら、まさか自動販売機で驚くなんてと思ってしまいますが、現実はそうなのです。「外国人の目」というフィルターを通すことにより、日本で当たり前のものが世界では当たり前ではない、ということに気付かされます。

北海道から鹿児島まで縦断するなかで、きっとネタはいくらでも見つかるでしょう。田舎の道端には面白い看板やカオスな物がいくらでもありますからね笑 そんなひとつひとつのものに対する外国人の反応をレポートする中で、日本の人々に価値観の違いなどを伝えていきたいです。

 

その③ 日本の魅力を世界に発信できる

2020年に東京オリンピックが開催されます。日本の魅力を発信する最高のタイミングです。外国人に、東京や京都だけが日本じゃないんだよ、と伝えたい。そこで、最初は英語を勉強して、旅のブログを英語で書こうとも思いました。しかし、日本語で書いてさらに英語でも書くとなると相当負担が大きいうえ、やはりぼくが英語にすることによってニュアンスが異なってしまう部分はあるでしょう。

ここに、外国人と一緒に旅をする最高のメリットがあります。つまり、その日の旅を終えたら、ぼくは日本語でブログを書き、彼は英語でブログを書くのです。そうすれば、世界中にこの旅を発信できます。もちろん、彼が書くのは、ぼくのブログの英訳文なんかではありません。彼が感じたことをそのまま書いてもらいます。すると、きっとぼくと印象に残ったものは異なるはずなので、話の内容も少し変わるでしょう。それがまた価値観の違いが浮き彫りになって面白いと思います。さらに、ぼくが彼のブログを読めば英語の勉強にもなります。

 

パッと思いついたのが上記の3つでしたが、ほかにも外国人と旅をするメリットはあるかもしれません。

 

今日友人と話していたら、いいアドバイスをくれました。

「企画だけ話してもなかなか理解してもらうのは難しいかもしれないけど、具体例を見せたら、きっと面白いと思ってもらえるよ」

「じゃあ、試しに外国人と一緒に徒歩で山手線一周とかしてみて、その様子をブログで書いてみようか」

「ええやん!『外国人と歩いて山手線を一周してわかった10のこと』なんて記事なら、バズりそうやな笑」

「うん、面白い。いける気がする」

ちょっと今度やってみようかと思います。